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連鎖崩壊のネクロ―シス

Juno Sospita

​調合士:

※本作はR18-G作品です。18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。














連鎖崩壊のネクロ―シス


作:Juno Sospita



Doubt … is an illness that comes from knowledge and leads to madness.

疑惑……それは知識がもたらす病であり、狂気に導くものである。

- Gustave Flaubert 狂人の回顧録より-




雪は燐光を放ち、空には一等星が煌々と輝く。吐く息は白く、深山幽谷にはただ静寂が満ちていた。新雪に身を委ねれば、吸い込まれそうなほどの夜空が視界一面に広がる。螺鈿細工のようなその美しさはいつの時代も変わらずそこにあった。


同じ濃紺のヴェールの内側にあれど、夜空に浮かぶ無数の星の一つ一つに興味を持つ人間は少数派だ。


「遙かな宇宙に祈りを――いあ、いあ――……」


岩場に置いたCDプレーヤーから流れるノイズ混じりの音声は静けさの中に溶けていった。私は寝転がったまま声に合わせて祈りを捧げた。


「いあ、いあ……」


その言葉に込められた意味も知らず、ただ私は遠い宇宙の星々に潜む神に思いを馳せていた。私の言葉に反応する人間はおらず、私は一人ぼっちでその祈りを続けた。


どれだけ時間が経っただろう。誰かが雪を踏みしめて近づいてきた。


「星々に手を伸ばすにはまだピースが足りません。貴方ならどうしますか」


「……美月さん。そうですね、私なら……」


その瞳に大きな満月が映り込む。美月と呼ばれた女性は月に吠えるように高々と笑い声をあげた。




季節は初夏。長期休暇も近づき、何かを始めるには打ってつけの時期となった。太陽が天頂に輝く頃にもなると肌にはじとりと汗が滲んだ。


私の名前は水橋杏子。無気力な高校二年生だ。今日も学校を二限からサボタージュし、いつもの喫茶店で友人の高砂小梢と待ち合わせをしている。小梢とは小学校以来の仲で、高校は別々のところに通うことになったが、今日のように定期的に遊ぶ間柄である。一般にギャルと呼ばれるような派手な見た目の私とは違い、艶やかな黒い髪をぱっつんに切り揃えた童顔の彼女は優等生と呼ばれることが多かった。


制服のシャツに染みを作りながら、私は一層冷房の効いた席を選ぶ。若者向けにデザインされた店内は、平日の昼ということもあり閑散としていた。


人の目が無い事を良い事に、私は制服のリボンを緩め、脚を開いて席に着いた。タオルで汗を拭いていると、スマホに通知が届いていた。


『あと五分で着く!』


小梢からのメッセージだった。すぐそこまで来ているなら、と私は店員を呼び今日から新発売のフラッペを二つ注文した。


ガラス張りの店内から小梢を探そうと表の通りを覗くと、真っ白なローブのような服を着た女性が目に入った。フードを深く被っていたため顔こそ見えなかったが、ほんの少し外に顔を覗かせていた金色の髪は太陽の光を浴びて琥珀のように輝いていた。この暑さの中、何故そんな恰好をしているのかは皆目見当も付かなかった。その女性が目を惹いた理由は特徴的な服装や美貌だけではなかった。女性なのに二メートルほどの背丈だったのだ。日本人女性にしては珍しいその長身は、私の視線を惹くのに十分だったのだ。だが特に何か起こるわけでもなく、そのまま女性は歩き去って行った。そして女性が通りから姿を消したところで小梢が現れた。髪はしっかりと整えられ、制服も着崩していない優等生の恰好だ。しかし走ってきたわけでもないのに、彼女の額には玉のような汗が浮かんでいた。彼女は店内の私の座る席までやってくると、深呼吸をしてから表情を整えた。


「ごめん待った?」


「ちょっとねー。新作頼んどいたから」


「ありがと。ピスタチオの奴ずっと楽しみにしてたんだよねー」


「こーずー学校サボるくらいピスタチオ好きなんて知らなかったわ」


小梢は上機嫌で席に着く。そしてピシっと姿勢を正してフラッペがやってくるのを待っていた。


傍から見れば私が大人しそうな女子高生をカツアゲしているような構図で他愛もない世間話をしていると、お待ちかねのフラッペが姿を現す。


「お待たせいたしました。ピスタチオフラッペM、創世ビッグバン盛り二つでございます」


机に置かれた緑色のフラッペにはこれでもかと緑色のムースが盛られていた。写真よりかなり多めに盛られたムースを見て私は少し引いていたのだが、対して小梢はウキウキでフラッペをスマホで撮影するなどしていた。


「これヤバイっしょ」


「ヤバイよね~!学校サボってよかったなぁ~!いただきまーす!」


私の不安を他所に小梢はどんどんフラッペを食べ進めていった。フラッペは美味しかったのだが、あまりの量に私は段々と食べるペースが落ちていく。私より小柄な小梢が完食するまでに私は半分しか食べられていなかった。満足そうに伸びをした後、小梢は羨ましそうにその残りを眺める。


「……食べる?」


「いいの?まだ半分も残ってるのに」


「いいよ。こーずー好きなんでしょ」


「えへ……ありがと!」


好機とばかりに私は食べきれなかったフラッペを小梢に渡す。本人は嬉しそうだからこれが最良なのだ。私が苦戦していたそれは小梢の手に掛かれば五分と持たなかった。食欲を満たした私達はそのまましばらく居座り雑談を続ける。


「てか今日のこーずーなんか機嫌良いよね。そんなにフラッペ楽しみだった?」


「あ~、それもあるけど他にも良いことあったんだ」


「まさか彼氏?それとも前言ってた海外旅行のチケット当たった?」


「えへへ……まだいないよ。チケットは落選しちゃったし……。でもさっきね、黎明ラジオの人に会ったの」


目をキラキラと輝かせながら、小梢は興奮気味に話し始めた。どうやらここに到着した時少し興奮気味に見えたのは「黎明ラジオの人」に会ったかららしい。その黎明ラジオについて私は何も知らなかった。


「黎明ラジオ?」


「最近ハマってるんだ~。面白いんだよ」


「何系?」


「んー、スピリチュアル系?宇宙の彼方にいる神様について教えてくれるんだ。そういう神様とコンタクトを取る方法も教えてくれるんだよ」


「こーずーそういうの好きだよね」


「うん。別に本当に神様とか信じてるわけじゃないけどさ、神秘的なものって良いじゃん。綺麗な感じするし」


私は神様を信じていない。小梢には悪いがオカルト系のものは一切信じていないのだ。神様が居るなら私はもっとマシな生活をしていたはずと思っているからだ。


「杏子ちゃんも聴いてみたら?今の時代はスマホでもラジオ聴けるし。ほら」


小さくて大人しいはずの小梢がグイグイとラジオを推してくる。彼女は私にも興味を持って欲しい時はいつもこうだ。半ば奪われるような形で小梢が私のスマホを取り上げ、そしてアプリを設定していく。


「はい、出来たよ。これで杏子ちゃんも聴けるよ」


「……こーずー結構強引なところあるよね。黎明ラジオかぁ。何時?」


「午後十時だよ!不定期放送だけど、さっき聞いたら今日はやるって!」


「ああ、会ったって言ってたね。どんな人だったの」


「すごい美人なの!真っ白なローブを着ていて、髪は金髪で……ホントにハリウッド映画の女優さんみたいでさ、何回か会ったことあるんだけど、毎回違う良い匂いがして……」


白いローブに金髪と言えば、先ほど表の通りを歩いていた女性だ。同じような女性を見かけたと伝えると、小梢は首を縦にぶんぶんと振って肯定する。


「そうそうその人!すごく知的で大人で声が綺麗で……とにかく推しの人なの!そんな人と会えちゃったから今日はとても機嫌が良いのです」


「こーずー、めっちゃ早口になってるってば。そんなに推しなら今夜は聴いてみるよ」


推しの売り込みに成功したからか、小梢は酷く上機嫌に笑った。


その後は少し雑談して解散となった。小梢は駅南にある塾で自習するらしい。駅南は小梢の通う塾などがある大通り沿いは至って普通だが、一歩路地へ入るとクラブやホテルが立ち並ぶ歓楽街だ。小梢と別れるのは寂しいが、そちらの方について行っても女子高生がこころ躍らせるようなものは何もない。私は流行りのアクセサリーでも見に行こうと思い、駅前の雑貨店へ向かうことにした。


放課後の時間になるより前に私は雑貨店へと到着した。雑貨店の中ではラジオが軽快な音楽を奏でていた。先ほどの喫茶店とは異なり、別に新作商品が出ているわけでもなく、ただ時間を潰すためだけにここへ足を運んだ。変わり映えのしない店内には目新しい商品はなく、見飽きるほど眺めた商品棚を私は無意味に見上げた。


そうして無駄に時間を浪費しながら大して好きでもないアクセサリーを一つ買った。


私の家は裕福だ。いわゆるパワーカップルというやつで、両親は共に仕事人間だ。二人とも家にいない事の方が多く、家事もほとんど私がやっている。その分お小遣いは渡されているし、欲しい物も大抵揃えてもらえる。私の両親は悪い人間ではないし、今の自分が不幸だと思ったこともない。


しかし周囲の同級生と“同じ”になれないことは昔から苦痛だった。親が参加出来る行事に私の両親は来られなかった。それは仕方ないことだと分かっていたが、私だけが違うという状況が嫌で、次第に学校を始めとした集団生活が嫌いになっていった。そうして私は学校をサボりがちになった。高校に入ってからは親が参加するような行事などなくなったが、身体に染みついたサボり癖が抜けることはなかった。私がサボることに意味などない。だから今日もこの無味乾燥な時間を過ごしている。


小梢と別れたことで、私には虚無の時間が訪れてしまった。虚無を味わう必要もないため、駅前から離れ、そろそろ帰って寝ようと思った時、繁華街に設置された大型ビジョンの映像が切り替わった。信号待ちに引っかかっていた私は何も考えずに画面を眺めていた。それはニュース映像のようだった。


「――大型の隕石が地球に接近しているようで――約一週間後に地球に衝突する可能性が――」


真剣に見ていなかったこともあったが、流れてくる情報があまりに非現実的過ぎて、私の頭は理解を拒否していた。隕石?何?


周囲の人々も画面を見上げはするものの、さして興味がないのかすぐにスマホの画面に目を落とす。すれ違う学生達は「どーせ大したことないっしょ。それより夏休みさー」と事態を軽く見ているようだった。周囲の誰もが変わらぬ日常を過ごしていた。いつの間にか私もスマホを弄り、流行りのタレントが出演している動画の再生を始めた。




気付けば外が真っ暗になっていた。いつの間にか私は自宅のベッドの上で寝ていたようだ。時計は午後八時を指していた。寝ぼけ眼のままスマホを取り出せば、山のような通知が来ていることに気が付いた。両親や学校の同級生、そして小梢からだ。どうやら全員隕石のことで騒いでいるらしい。街角の大型ビジョンを見ていた時はさほど深刻に考え無かったのに、顔見知りの人間が揃いも揃って騒いでいれば、私の心は不安で騒めいた。


両親からのメッセージは『危ないから家にいなさい』という内容だった。二時間前に送られたようだ。どうやら都市部は無法地帯となっているらしく、職場から帰れないらしい。何故そんなことになっているのか私には理解出来なかったし、いつも過ごしている街が無法地帯だなどとは信じられなかった。しかし次に来ていた小梢のメッセージを見て、私の胸は動悸を抑えられなくなった。


小梢からのメッセージは短くこう書かれていた。『たすけて』と。


「こーずー……、塾で自習するって言ってた……。駅南の……」


街は無法地帯だと両親からのメッセージにはあった。もし、もしも駅南がそのようなことになっていたら。いや、むしろ最もそういう事態に陥りやすい場所が駅南だ。両親には心配を掛けると思いながらも、私は急いで靴を履いて外へと飛び出した。



遠くに見える駅南の方角からは黒い煙が上がっていた。路上には車が放置されており、それが数台もあれば狭い住宅地の道は塞がってしまっていた。車での移動は難しいが走る分には問題ない。小走りでその合間を私は駆け抜けていく。自宅から駅南までは走れば30分ほどだ。夜でも収まらない熱気はいつもより熱さを増していた。


ベタベタになりながら到着した駅前の大通りは人で溢れかえっていた。路上の車はひっくり返され、半裸の男女が狂ったように踊っている。比較的綺麗に清掃されていた大通りは大小さまざまなゴミで溢れ、交差点ではゴミの詰め込まれたドラム缶が燃えていた。


私は汗で顔に貼りついた髪を掻き上げ、最悪の状態になっていなかったことに安堵した。しかし見渡す限り小梢の姿はなかった。顔見知りの姿も無く、ここにはただ自暴自棄になり果てた大人たちがいるだけだ。確かにここに秩序はなかったが、大人たちは熱に浮かされているようで心底楽しそうに見えた。


彼らの前を通り過ぎ、そして駅構内も駆け抜けた。当然のように電車は止まっており、人影はほとんどなかった。駅を通り抜けると駅南だ。ここもさほど状況は変わらず、大人たちが狂喜乱舞しているところだった。通りに面した建物はどれも無事だった。家から見えた黒煙は先ほどのドラム缶からのものだったようで、こちらに火の手は見当たらなかった。


肝心の小梢はすぐに見つけることが出来た。彼女は金鎖を首に巻いた男達に絡まれているところだった。よほど彼らが恐ろしいのか、彼女は俯いたままぎゅっとカバンを握りしめ、近づく私に気づくことはなかった。私は彼らの間に割って入り、小梢の手を掴む。


「こーずー、行こう」


「杏子ちゃん……!」


私は小梢の手を引きすぐに男達の輪の中から出た。彼らが状況を理解し妨害に出る前に出られたのは幸運だった。そのまま後ろを振り返ることなく、私は足早にこの場を離れようとした。


「おいおいおい。待てよねーちゃん達よ」


背後から声がした。一切振り向かない私には男達の誰が発した言葉か分からなかったが、それは些細な事だった。心臓が早鐘のように鳴り響き、口の中がカラカラに乾いていく。どうか諦めてどこかへ行ってくれと私は心の底から願った。


「杏子ちゃん……!」


「見ちゃダメ。さっさと歩く」


駅を通り抜け、ドラム缶の横も通り過ぎた。相変わらずのバカ騒ぎが続いていたが、全て無視して私達は元来た道を戻る。早足で住宅街へと戻ってきたが、後ろの男達は変わらず後をつけ、下品な笑い声をあげながら時折私達に話しかける。


「無視しなくてもいいじゃん。どうせもう地球終わりなんだしさ。楽しいことしようよ」


意味不明な事を叫びながら男達は距離を詰めようとする。たまらず私と小梢は走り出した。家はもう目の前だ。中に入ってしまえば助かるだろう。玄関のドアに手を掛けると扉の鍵は開いていた。部屋の電気も付いていたので両親が帰ってきているのだろう。私は安堵のため息をついて家に入り、そして鍵を閉めた。


「はぁ……はぁ……何なのあいつら」


「分かんないけど……メッセージ見て来てくれたんだよね、ありがとう杏子ちゃん……。ホント助かった……」


私も小梢も安堵の表情とは言い難かった。表情筋を硬直させたまま、小梢は絞り出すように礼を言う。玄関の覗き穴から外を見てみれば、先ほどの男達は諦めて引き返していくところが見えた。私はようやく口元を緩めて小梢にそれを伝えた。


「あいつら、帰って行ったよ」


「ホント……? よかった……」


ふぅ、とため息をついて小梢はその場にへたりこんだ。泣き叫んだりするような子ではないと知っていたが、そんな彼女の目にも今日ばかりは涙が浮かんでいた。私は彼女を立ち上がらせ、シャワーを浴びるように促した。小梢はそれに従って風呂場へと向かって行った。


私は居間へと向かう。そこには心配した表情の両親が居た。


「杏子!どこ行ってたの!」


居間のドアを開けるなり私は母親に抱きしめられた。予想をしていなかった出来事に私は面食らう。そこまで心配されていたとは。


「ご、ごめんママ。小梢ちゃん迎えに行ってて……」


「小梢ちゃんと一緒に帰って来たの? そうだったの。でもダメよ? ニュース見てないの?」


「ニュース? 隕石の?」


「うん。地球に落ちてくるって」


昼間のニュースのことだろう。母親の様子を見るにあまり楽観視出来ないのかもしれない。私は背筋に寒いものを感じながらも平気そうな顔をした。


「大丈夫だよ。何とかなるって。私、小梢ちゃんに着替え持って行くね。ちょっと走ったからさ。先にシャワー浴びてもらってるんだ」


「そう……」


母親はまだ心配そうな顔をしていたが、私はそれに背を向けて自室へと向かう。そしていくらか自分の服を持って脱衣場へ向かった。バスルームからはシャワーの水音が聴こえた。


「こーずー、着替え私の使っていいから。置いておくね」


「あ…………。ありがと」


間の抜けた声が浴室内で響いた。小梢がすぐに本調子に戻ることはなさそうだった。


「今日は家に泊まっていきなよ。私のベッド使っていいからさ」


「え、それは悪いよ」


「代わりに黎明ラジオ、一緒に聞いて」


何が代わりか。小梢が遠慮するのは分かり切っていたが、それに対して用意した口実は我ながら強引すぎると思った。流石に小梢もそう感じたのか、扉越しにくすりと笑うのが聴こえた。


「……笑わなくてもいいじゃん」


「ふ……ううん。めっちゃ強引だし」


「そんだけ心配なの」


「……うん。分かってる。ありがとう。今日は本当にありがとう、杏子ちゃん」


「うん。部屋で待ってるから」


それだけ言って私は浴室を後にした。背後でずずっと鼻を啜るような音がしたが、私は聴かなかったことした。




しっかりとした造りのベッドと、年頃の女の子が好きそうな服の詰められたクローゼット、そして可愛げのない学習机、実用性のある物しか置かれていない物置棚。主にこの四つの家具で構成されているのが私の部屋だ。ふかふかのベッドに腰を下ろし、スマホはスピーカーに接続した。冷房の効いた部屋でお菓子を食べながら私と小梢は時計の針が午後十時を指すのを待っていた。


ジジ……とスピーカーにノイズが走る。そしてゆったりとしたピアノの旋律と共に、非常に聞き取りやすく同時に包容力を感じさせる落ち着いた女性の声が流れ始めた。


“夜空を見上げて下さい。そこにある無数の星々を眺めて下さい。同じ濃紺のヴェールの内側にあれど、夜空に浮かぶそれらの一つ一つに貴方は興味がありますか”


特徴的な文言でそのラジオは始まった。その問いに答えるなら、私はNOであった。妙に引き込まれるような語りに私は耳を傾ける。


“今日は<始まりを告げる神>についてお話ししましょう”


ベッドに寝そべりながら、隣の小梢は「どんな神様だろう?」と瞳をキラキラと輝かせながら呟く。私はそこまでこの<始まりを告げる神>に心ときめくものはなかった。


“宇宙は何度も同じ状態を繰り返しています。貴方が今日行ったことは前の宇宙でも同じように貴方が行っていたことなのです。これを永劫回帰と言います。永劫回帰する宇宙には必ずループの始まりと終わりがあります。その時を告げるのが<始まりを告げる神>です。それが告げる終わりはつまり始まりであることから、始まりを告げる神と呼ばれています。その神は今はこの宇宙に存在すらしていません。ですが、一度存在を得ればもう宇宙の終焉は回避出来なくなります”


隕石が迫り人類が滅亡するかもしれない今、よくこのような珍説が披露出来るものだと私は内心馬鹿にしていた。じゃあ来週には私達が死んでしまうのも前の宇宙と同じことで、決まった運命なのだろうか。この考え自体はこの声の主が考えたものではなさそうだったが、それは何とも救いようがない話で、考えたところで仕方のないことだと私は思った。しかしそんな話を小梢は楽しそうに聴いていた。何が面白いのかは理解出来なかったが、楽しそうな彼女の様子を見てはその気分に水を差すような言葉は出てこなかった。


“貴方の人生は全て運命として決まっていて、そこには何の分岐もない”


“ただ流れに身を任せていても必ず結果は同じになる”


“それならもう何もしなくてもいいですよね。難しい事を考える必要もない。全ては無駄なこと”


呪詛のような言葉が次々と紡ぎ出される。今すぐにスピーカーを切ってやりたかったが、肝心の小梢はスピーカーに視線を釘づけにしていた。


“――しかしそれでは救いがない。そうは思いませんか?かの神にもし願いを聞き入れてもらえたなら。もし永劫回帰の法則から逃れることが出来たなら。それはとても素晴らしいことだと思いませんか”


「思う!思うよね!杏子ちゃん!」


純真無垢な瞳がキラキラと輝く。私は「ああ、うん」と短く相槌を打った。スピーカーから聴こえる声は抑揚を増し、語りのクライマックスが近い事を示唆していた。私は初めて友の正気を疑った。


“ならば祈りを捧げましょう。かの神へ”


小梢はパッとベッドから飛び起きスピーカーの前に跪く。そして額の前で手を合わせ、小声でブツブツと祈りを捧げ始めた。


「始まりを告げる神様……始まりを告げる神様……、どうか私の言葉をお聞き届けください。私と杏子ちゃんが明日を生きられますように……」


それは最早新興宗教の礼拝に他ならなかった。確かに小梢はスピリチュアルな物が好きで、賢いがどこか抜けている子だった。だが少なくとも私の前で、ここまでオカルトにのめり込んでいる姿を見せたことはなかった。だが祈ったから何だと言うのだ。今日小梢を守ったのは始まりを告げる神様ではなくて私だ。何よりも、小梢も本当は神様のことなんかどうでも良くて、この声の主の女に心酔していることが気に食わなかった。私は祈りを捧げる小梢を無視してスピーカーのコードを引き抜いた。彼女は驚いたように顔を上げ、私の方を見て抗議の声をあげようとした。私はその声をかき消すように声を張り上げた。


「ちょ、ちょっと杏子ちゃ――」


「小梢!!」


彼女の両手を掴みこちらを向かせる。私が慣れないことをしたからか、彼女は驚いて言葉を失ってしまっていた。


「こーずー、おかしいよ。これ」


「え……でも……」


「これ新興宗教と同じじゃん。いつものタロットカードとかとはわけが違うよ」


「そんなことは……」


「いや……こーずーが祈りを捧げているの、神様とかじゃなくてこの女じゃん。違う?始まりを告げる神様なんて今日まで知らなかったんでしょ?なんでそんなものに祈りなんか捧げられるの。おかしいよ」


返ってくる言葉はなかった。小梢は酷くショックを受けたのか、うなだれたまま動かなくなった。怒っているのか悲しくなったのかすら分からなかった。


「ベッド使っていいから、もう寝なよ。ね?」


「…………うん」


言われた通りに小梢はベッドへと潜ると、頭からすっぽりと毛布を被った。飛び出していく様子ではなかったから、私も寝袋を引き出してその日は就寝した。




翌日から私達はまともに外出することが出来なくなった。昨日お祭り騒ぎを起こしていた群衆はいつの間にか暴徒と化し、警察が職務を放棄してからは完全な無秩序状態に陥ったのだ。私の家がある住宅地の近隣でも放火が相次ぎ、窓の外に火の粉がちらつくことも少なくなかった。映画の中では、こういう時軍隊や警察が秩序を保ち、避難所を開設し保護してくれるものだ。しかしどう対応を間違えたのか、彼らは職務を放棄し暴徒側へと溶けこんでいった。今では民衆を暴徒から守る盾は何も存在せず、明かりもつけずにひっそりと過ごすしか、彼らから身を守る方法はなかった。


スマホが使えたのは二日目までだった。電気は届いていたものの、インターネットが不通になってしまったのだ。ゲームもネットに繋がらなければ起動すら出来ないものばかりで、私も小梢も暇を持て余すようになった。


今日はあのニュースが流れてから五日目だ。小梢はあれからずっと私の家に泊まっている。外がこんな状況だから出られないのだ。小梢の両親には初日の段階で連絡がついており、私の家にいることは把握してもらえているのだが、再開は果たせていない。


この日は久しぶりに静かな朝を迎えられていた。連日連夜、人の罵声や金属音、そして物が燃える音がひっきりなしに聴こえていたが、どういうことか今朝はしんと静まり返っていた。私は分厚い遮光カーテンの隙間から表を覗く。


「誰もいない……」


家の前には壊れた乗用車が一台放置されている他、向かいの家のブロック塀が崩れており、その他に大小様々なゴミが捨てられていた。遠くの方で黒い煙は見えるものの、それは一本だけだった。距離的には隣町ほどの距離だろうか。後からやってきた小梢と共に、その方角をじっと眺めた。


「あれどのへんかな」


「たぶん市立図書館があるらへんだと思うよ。ヤバイ人はみんなあっちの方に行っちゃったのかな」


「……今なら家に帰れそうだけど」


今となっては状況も詳細も知る術はないが、元はと言えば一週間後に隕石が衝突するというニュースが原因のはずなのだ。その日までもう残された時間は少ない。小梢の両親はきっと彼女に会いたいはずだ。


「うん……でも」


「私も送っていくからさ」


その時、突然小梢に手を握られた。細い指は微かに震え、幼さの残る瞳は今にも泣き出しそうなほどであった。


「違うの杏子ちゃん。私、杏子ちゃんと会えなくなるのも嫌なの」


「こーずー……」


「お父さんとお母さんには会いたいけど……。でもここでお別れしたら、もうみんな死んじゃうから次会うことはないし……」


小梢の言いたいことは身に染みてよく分かっていた。私だって彼女との別れは辛いからだ。小梢がずっとここにいると言ってくれればいいなと、淡い期待を抱いてしまっているのも事実だ。だが最後の時くらい親に合わせてやりたいのもまた事実なのだ。その時ふと小梢が落選した海外旅行のことが頭をよぎった。


「じゃあこうしようよ。こーずーのパパとママに会いに行った後、二人で海まで行こ。それで最後の時まで一緒にいようよ」


「杏子ちゃん……」


小梢は少し驚いたように顔を上げる。私の提案が嬉しかったのか、彼女は表情をいくらか緩めた。


「こーずーあれじゃん。海外旅行行きたがってたじゃん。もしかしたら見えるかなーって。海外」


「杏子ちゃんったら……。見えるわけないじゃん」


「……笑わなくてもいいじゃん」


「いやおかしいって。海しか合ってないじゃん」


小梢はくすくすと笑い声を漏らした。当然見えるわけがないことは私にも分かっていた。少しバツが悪いのか、私は無意識のうちに後頭部を掻く。


「……強引すぎる?」


「強引すぎるけど、良いよ。ありがとう杏子ちゃん」


「じゃあ、うちのパパとママに挨拶していこっか」


新しい肌着に袖を通し髪を整えると、小梢が化粧ポーチを持ってきた。彼女のではなく私のだ。そこからいくつか道具を取り出し、テキパキと私の顔にそれを塗っていく。お願いしたわけではないが、今は黙って彼女に任せていた。


いつものより少し薄化粧で、控えめな顔になった私は鏡の前で顔を傾け、しげしげと様子を観察した。私の趣味ではなかったが、これはこれで悪くない。何より小梢が施してくれたことが特別だった。


小梢が私の前に座る。私も黙って小梢の化粧ポーチを取る。私のものよりずっと数が少なく、そしてナチュラルな色合いのものばかりだ。私は心を落ち着けて派手にならないように気を付けながら手を動かした。


お互いにお願いしたわけではなかったが自然とこうなった。もう生きてここには戻って来られない気がしていた。私は自分の短い人生の大半を共に過ごした道具達に別れを告げ、小梢と共に階下へ降りる。静かな空間に二人の足音だけが響いた。




両親への別れはあっさりとしたものだった。私は両親に反対されると思っていたのだが、意外なことに父も母も私を引き止めなかった。二人とも悲しそうではあったが、どこか嬉しそうにも見える表情で私を送り出した。いなくなってくれて清々するといった感じではなかったから、両親がどんな心境で私を送り出したのかは分からなかった。


今、私と小梢は自由な心で街を走っていた。道を行く人は自分達以外におらず、大声で話していてもそれを咎める人はいなかった。静まり返った街に私と小梢の足音と笑い声が響く。折れ曲がった標識も、もう点灯しない信号機も、焼けた家屋も、何も視界に入らなかった。


「こーずー! 海、どっちの海にする!?」


「どっちって!どれとどれ!」


「太平洋と日本海!」


「近い方が良い!」


「じゃあ太平洋な!」


まだすやすやと寝息を立てていた朝の空気も私達の声に起こされたようだった。アスファルトの上で陽炎が揺らめきはじめ、蝉の鳴き声がどこかから聴こえてきた。


お昼前には小梢の家に着いた。小梢の両親は元気そうな顔をしており、小梢もほっと胸を撫で下ろしていた。彼女の両親も私達が海へ行こうとしていることには反対しなかったし、やはり私の両親と同じような表情をしていた。私にはまだそれがどういう心境なのか分からなかった。




二人で海を目指し始めてから初めての夜を迎えた。何の計画性も無しに飛び出したものだから、道中で見つけたコンビニで飲料水を取ってきていなかったら今頃倒れていただろう。私達は息を整えながら、もう誰も立ち寄ることのないショッピングモールの寝具コーナーへとやってきた。


食品エリアは荒らされていたが、寝具コーナーには人の気配は一切しなかった。駅南の一件もあったことから護身用に道中で拾っていた鉄パイプを放り投げ、私が飛びっきりの高級布団に全身を投げ出すと、小梢も真似をして寝転がる。自分の部屋にあった布団も決して安物ではない。だが高級品と銘打たれているだけでいつもと違う感じがした。その慣れない感触に、この非日常が現実だと再認識させられた。


「もう、世界終わっちゃうんだね。こんなこと普通は出来ないっしょ」


「……そうだね。私も趣味でこういう黙示録の日を想像したことはあるけど、まさか現実にやってくるなんて」


「黙示録の日?何それ」


「聖書に載っている世界終末の日の事だよ。もうネットに繋がらないから見ることは出来ないし話すけど、私ネット小説を書いていたの」


恥ずかしそうに小梢は笑う。そのことを笑ったり馬鹿にしたりしないから話してくれればよかったのに、と私は思った。


「初耳だな。読んでみたかったなぁ。こーずーの小説」


「やめてよ~。結構恥ずかしいんだから」


「で?どんな終末物語書いてたの?」


「今みたいにさ、災害で滅びるってお話じゃなくて人間が自ら滅ぼす話だったの。世界が滅びるって偉い人達に信じ込ませてさ、でも主人公の特別な力で選ばれた人だけは助けますよって言うの。そうしてお互いに争わせてさ。主人公に反抗出来るような勢力が消滅するくらいにボロボロになったところで、世界の救世主として主人公が名乗り出るの。そうして人類は主人公の言いなりになって緩やかに滅亡していくってお話」


「へぇ……」


元から頭の良い子だと思っていたが、どうやら自分が考えていたよりも遥かにしっかりとした内容の小説だったらしい。その内容を話す小梢は顔を赤らめ、じっと私を見つめる。


「……ちょっと中二病っぽいよね」


「そう? ちゃんと書ききれていたならそうでもないと思うけど」


「嘘だ~」


「そんなことないって! お世辞じゃないってば」


ありがと、と小梢は短く呟いた。それから少しして、長距離を移動して疲れたのか小梢は寝息を立て始めた。私も布団に深く潜り込み、そっと目を閉じた。私の瞼の裏で、この一週間の出来事がフラッシュバックしていった。




うだるような熱気で目が覚めた。まだ外は薄暗く、寝具コーナーには明かりらしい明かりはなかった。隣の小梢も同様に目を覚ましており、真剣な顔で彼女はこちらを見ていた。


「杏子ちゃん、聴こえる?」


彼女は声を潜める。問いに答えるため耳に意識を集中する。すると喧噪とは違う、多くの人の声が外から聴こえることに気が付いた。老若男女様々な声が入り混じったものだ。私はその辺に転がっていた鉄パイプに手を伸ばす。


「何、これ?」


「こっそり見てみよう」


小梢の提案でショッピングモールの二階から外を眺めた。すると幹線道路の真ん中を人の行列が行進しているのが目に入った。行列の服は様々で、Tシャツのような軽装からスーツのような服装まで様々だった。年齢層も一定ではなく、大人しそうな人から派手そうな人まで見て取れた。何か目的を持って行進しているようだったが、プラカードなどはなく、話している内容も統一されたものではなさそうで、ただの雑談のように聴こえた。その奇妙な光景に、私はどこか背筋に寒いものを感じた。


「こーずー、アレなんか変だよ」


「うん。こっちに来る感じじゃないし、やりすごそ?」


私達は黙ってその行列が過ぎ去るのを待った。果てもなく道路の先まで行列は続いていた。一体何のためにこんな事態になっているのか。あまりに長すぎる行列を眺めるのにも飽きた頃、突然小梢が声をあげた。


「あっ……! 杏子ちゃんあれ見て!!」


「どれ……? あ……?」


彼女の指差した先には私の良く知る人物の顔があった。


「あれ……? パパ?」


そう、私の父親だ。別れてからそう時間を空けずして再会出来たことは、こういう奇妙な場面でなければ純粋に嬉しかっただろう。小梢は見知っている顔がいるなら話を聞こうと私の手を引いた。少し強気な彼女に引っ張られながら、私達はショッピングモールを飛び出し父親の元へと走った。


「パパ……!!」


「あれ? 杏子? まさか追いついてしまうとはね」


私が声を掛ければ父親はそれに気が付き、いつもの調子で声を掛けてくれた。この得体の知れない緊張感が漂う空間で、ただ父親がいつも通り接してくれることだけが唯一安心出来る要素だった。


「パパこれ一体なんなの……?」


「これはね、人を救うための行列さ」


「はぁ……?」


「美月さんという方が私達に声を掛けてくれてね。あの人の近くにいると心も身体も満たされているような幸福な状態になるんだ。だからね、多くの人とこの感覚を分かち合うためにね、人に見えるように行進をしているんだ」


「な……何言ってんの……?」


いつも通りの声で、いつも通りの口調で、いつもとは全く異なる言葉が父親の口から飛び出してくる。そしてもっと驚いたのは小梢の態度だ。今言葉のどこにそんな要素があったのか皆目見当もつかないのだが、彼女は瞳をきらりと光らせ周囲をキョロキョロと見回していた。


「美月さんがいるんですか!?」


「小梢ちゃんは美月さんのことを知っているのかい? いるよ。ここよりちょっと後ろにいるはずだ」


「美月さん……? こーずー知ってんの……?」


「うん! あの……前に話していた黎明ラジオの人だよ」


私は後頭部をガツンと殴られたような感覚に襲われた。あのカルト女だ。何故誰も彼女のやっていることに疑問を持たないのか。いや、もしかすると私が理解出来ないだけで、本当に神秘的な人物なのではないか。いくつもの思考が頭の中をグルグルと巡り始めた。しかしその思考が収束する前に小梢に手を握られる。


「会いに行こう。杏子ちゃんは美月さんの事、きっと怪しい人だと思っているだろうけど……、会えば分かるから!」


「ちょ……! 待って……!」


信じられないような力で私は引っ張られていく。群衆をかき分けるようにして小梢は進んでいく。どこに“美月さん”がいるか知らないはずなのに、彼女は一直線に走っていく。そうして五分経ったくらいで、ようやく小梢は止まった。


「こーずー……お前ね……」


「いたよ。杏子ちゃん。ほら見て。あれが美月さん」


視線の先に居たのはあの時見かけた長身の女性だった。月光のようにキラキラと光を放つ髪と瞳が不気味なほどに神秘的なあの女性だ。小梢がその女性に手を振ると、それに気づいた”美月さん”が向こうから近づいてきた。至近距離で彼女から見下ろされる私は小動物のようであっただろう。威圧されているわけではないのに、“美月さん”に見つめられると私は萎縮してしまっていた。気づけば口も足も動かなくなっていた。


「小梢、数日ぶりですね。元気にしていましたか」


低く落ち着いたその声は、あのラジオで聴いたものと同じだった。彼女は細く長い腕を伸ばし、そっと小梢の頭を撫でる。彼女は嬉しそうに目を細めそして頷いた。


「そちらの方は? 私に怯えているようですが。大丈夫、私は貴方を取って食べたりはしませんよ」


蛇のようにしなやかで細い指が私に迫った。恐怖で固まったままの私は逃げることも出来ず、その牙が私に突き刺さるのをただ待ち受ける事しかできなかった。だがそれが私の頬を貫くことはなく、小梢と同じようにそっと触れるだけだった。


「私は美月。人を導くことを使命としています。貴方、名前は?」


「あ……私は……、す、水橋…………杏子です」


水分の無くなった口内でたどたどしく舌を動かす。その間も私の頭の形を確かめるように美月の手は動いていた。怪しすぎる。そう感じながらも私は美月から離れる事は出来なかった。名前を教えてもらったところで美月は満足そうに微笑む。


「杏子というのですね。どうしてそんなに怯えているのですか?」


「いや……別に」


「大丈夫ですよ。ここにいれば私やみんなが守ってくれます。怖い物は何もないですから。暴れていた人たちも今や私と共にあるのです」


美月は仰々しく両手を広げた後、一人の男を指差した。その首に光る金色の鎖に私は見覚えがあった。


「例えばあそこの男。彼は暴動に乗じて人を二人殺し、そして未成年の女性を強姦した無頼漢でした。しかし今はそれが過ちだったと認め改心しました。今や彼は心優しい青年です」


あの時逃げられたのは幸運だったのかもしれない。そんな凶行に手を染めた男も今では聖人君主のような穏やかな表情となっていた。


「あれ……? あの人って……」


「たぶんあの時のアイツだろうね……」


「知っている方でしたか。折角ですし話してみてはどうですか?」


正直なところ美月から聞いた彼の罪状を加味すると、あの男がたった数日で改心したなどと信じることは難しかった。この美月という女に従っている理由は分からないが、腹の底では邪な事を考えているに違いない。私はその疑念を確信に変えるために男に近づいた。


「おい」


私は精一杯の眼光で男を睨みつけた。自分より大柄なその男が私に気が付き足を止めた。その時すかさず私は男の脛を蹴り飛ばした。いくら女の脚力でもまともに当たれば激痛が走る。案の定その男は飛び上がって脛を抑えた。


「痛っ!?」


「随分元気そうだね。何日ぶり?」


いきなりこんなことをされれば普通の人間は怒る。特にこの男なら私を殴るくらいの事はしてくるだろう。本当に心優しい青年に心変わりしたのなら、ここで手をあげるようなことはしないはずだ。私は彼からの拳が飛んでくるのを待ったが、意外なことにそれはいつまで経ってもやってこなかった。それは本来良い事なのだが、今の私にとっては私をイラつかせる原因でしかなかった。


「痛ぇ……。お前は……」


「駅で会ったでしょ。忘れた?」


男は蹴られた方の脛を抑えていたので、私は無防備な方の脛にもう一度蹴りを加えた。苦しそうな呻き声が男の口から漏れる。私は持っていた鉄パイプを見せびらかすように肩に置いた。流石に周りの人間も騒めき始めた。美月はただ静かにそれを見守っているだけで何か言ってくる様子はなさそうだった。


「お……思い出したぞ。あの時は悪かったな……」


「それだけ?」


「え……? ああ」


「……反撃してこないのはあの女……美月さんの前だからか知らないけど。私はアンタが改心したなんて信じられないし、それでアンタのこと許せるわけじゃないの。手は出されてないけどさ、それでも怖い思いしたことに変わりはないから」


「本当にすまなかった。美月さんに教えてもらったんだ……。一時的な快楽に意味は無いって……」


「へぇ、美月さんがアンタの相手してくれるってこと。良かったね。あの人綺麗だし」


「ち、ちがっ——」


喉まで出掛かったその言葉が発せられるより前に、私は持っていた鉄パイプを振り下ろした。パイプは男の左肩に命中し。布団を叩くような音と共に骨にぶつかった堅い感触がパイプ越しに伝わってきた。それでもまだ目の前の彼は反撃してこない。次は頭部を狙おうと私は再びパイプを振り上げる。しかしその腕は振り下ろされる前に小梢に捕まれ、男に命中することはなかった。


「杏子ちゃん……! それは死んじゃうよ……!」


「いいじゃん。こいつクソ野郎だし」


「ダメだって……!!」


「そうですよ。殺すのはよくありません」


美月が私と男の間に割って入った。美月は腰を折って視線を私の高さに合わせる。


「因縁のある相手を殺すことは一時的な快楽をもたらします。ですがそれは一時的でしかなく、長期的に見て何ら意味のあることではありませんよ」


「私に……私に説教垂れんな!」


美月への説明の付かない恐怖は依然として存在したのだが、それとは異なる感情が今の私の心を満たしつつあった。それだから私は精一杯の反抗心で啖呵を切る。脳内でアドレナリンがドバドバ分泌されているのが分かった。心臓の鼓動が早くなり、目の前の美月以外の言葉が聴こえなくなる。


「杏子、私の目を見なさい」


「なんでそんなこと―――あッ!?」


美月の両手が優しく私の顔を包んだ。そして彼女と視線を合わせられる。月光のような美しい光を放つ瞳が私を見つめた。その光は私の心の奥底にまで届くようにも思えた。私は美月に触れられると身体が固まってしまう。


「美月さんは教えてくれたんだ……。この世界には人間の想像もつかないような神様みたいな存在がたくさんいて……。そういうものに奉仕することこそ有意義だって……」


美月の後ろから男の声が聴こえた。男の声に呼応するように周囲から賛同の声があがる。無数の視線が私の背中に突き刺さる。美月はそっと私の頬から手を離すと、手で彼らを制止した。視線が私から外れ、唯一私を見ているのは美月だけとなった。


「杏子。貴方にも教えましょう。南太平洋の海の底で眠るクトゥルフ。アルデバランのハリ湖に幽閉されたハスター。フォーマルハウトに拘束されたクトゥグア……。そして宇宙の深奥で夢を見続けているアザトース。それら人類を凌駕する神の存在と、そしてそれらに比肩する<始まりを告げる神>の事を。さあ、私の瞳の奥に映る真実を――」


視界が歪む。そして様々な景色がフラッシュバックするように私の脳裏に投影された。光も差さない真っ暗な水中に沈む、巨石で構成された歪な建物群。草木一つ生えていない湖畔で身体を横たえた、無数の触手で構成された蠢く肉塊。ただ無が広がる空間に留められた黒い炎。そして宮殿のような荘厳な造りの建物の中で、狂ったフルートの音を聴きながらゴボゴボと沸騰する謎の塊。


美月の言葉は最後まで聞き取れなかったが、それは今体験している事に比べれば些細な事であった。それらは目の前で起こっていることではない。見えた映像が真実であるとも限らない。だが何故か私にはそう思えなかった。大体こんな映像を機械も無しに人間に見せられるものか。私の知らない真実がある証左ではないか。なら美月は何者なのか。映像に見えた化け物の手先だろうか。仮初の繁栄に終止符が打ちに来たのだろうか。だとしたら私達人間は今まで彼らの温情で生かされているだけだったのではないか。


悍ましい真実に息が出来なくなる。視界は元に戻っていたが、物を脳が認識出来ていなかった。私は立っていることが出来なくなり、適当に手に触れたものに掴まった。


「落ち着いて息を吸いなさい。きっと恐ろしかったでしょう。しかしあれらは敵ではありません。あれらは宇宙の法則そのもの。自然と何ら変わりません」


「私達は……人間は用済みになったからこんな事になっているの……?」


「それは分かりません。だから神に祈りを捧げる必要があるのです」


「祈ればあれらは私達を許してくれるの……?」


「許しを乞う必要はありません。ただあれらに忠誠を示せば、必ずや救いの手が差し伸べられるでしょう」


ああ、そうか。だから皆救いを求めて祈り、そして同志を増やしているのだ。本当に地球が滅びるのなら、助かるには最早神に縋るしかないのだ。目の前の美月が急に頼もしく見えてきた。いつの間にか私の口からは気色の悪い笑い声が漏れていた。何が面白いのか、おかしいのかさっぱり分からないが、もうどうでもよかった。美月さんについて行けば私は助かる。小梢ともずっと一緒にいられる。そんな気がした。




気付けば波の音が聴こえた。あの後疲れて眠ってしまった私は台車に乗せられて運ばれたらしい。横を向いても台車の木枠が見えるだけだ。上体を起こすと海岸沿いに多くの人がたむろしているのが見えた。きっとさっきの行列を作っていた人達だろう。足元には小梢が丸まって寝ていた。その手は錆びにまみれていた。まだ陽は落ちておらず、あれからそう時間は経っていなさそうだった。小梢の傍には父が座っており、私が目を覚ましたのを見るとこちらに笑顔を見せた。それ自体は何ら不自然なことはないのだが、私はこの場に違和感を覚えた。


「目が覚めたかい?丸一日寝ていたんだよ」


「あ、うん……」


「美月さんからいろいろ教えてもらったって聞いたよ」


「ああ、まあ」


時間が経っていないように見えたのは丸一日経ったかららしい。それほどの時間を寝たからなのか、先ほどまでのように頭の中は混乱していなかった。困った時の神頼みは否定しないが、それを妄信的に信じるのはやはりどうかと思った。


「そうか。でも杏子も本当の事が知れてよかったね」


「うん」


いくらか父と話しをして、何がおかしいのか私はようやく気づく。母の姿がどこにもないのだ。先ほどショッピングモールから見た時にも無かった。


「パパ、そういえばママは? はぐれちゃったりしたの?」


「ああ、ママはここにはいないんだ」


父の言い方にも何か違和感がある。私の胸の奥で悪魔が秒針を刻み始めた。この針が進めば進むほど、良くない言葉が出てくるような気がした。そしてそれは気のせいではなかった。


「ママはね、神様と一つになったんだ。その身を捧げてね」


「……神様と……一つに?」


「そうだよ。祈りを捧げながらその身を焼けば、始まりを告げる神様のところへ行けるって美月さんが言っていたんだ」


「は…………?」


教養の浅い私でも分かる。それは生贄というのだ。昔の事ならいざ知らず、まさか現代で神に生贄を捧げるなんて。ましてやそれが自分の母親だなんて信じることは出来なかった。怒りとか悲しみとか、そういった具体的な感情は湧き上がってこなかった。ただただこの現実が理解不能だった。


「杏子ちゃん……?」


足元の小梢がむくりと起き上がる。髪に白い砂を付けたまま、彼女は眠そうに私の方を見た。そんな小梢を見て父は彼女にも声を掛ける。


「小梢ちゃんも起きたんだ。さっき美月さんがお礼を言っていたよ。君のお話のお陰でここまで上手く進めることが出来たって」


「え……?」


「人間同士で争わせるのは正解だったって言っていたよ。何の事だろうね?」


冷たい風がその場を通り抜けた。小梢は顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。その怯えた視線が私を見る。私の感情はまだグチャグチャのままだったが、それは一つの形を取りつつあった。


小梢の書いた小説も人同士を争わせて世界を滅ぼした話だった。ニュースの話を信じるなら今日隕石が地球に衝突するはずだ。太陽を見るに今は午後のはず。すぐそこまで隕石が近づいていてもおかしくない。だが空にその姿はなく異常気象も見られない。もしそれが巧妙に作られた作り話だったら。全ては小梢が考え美月が実行した世界終焉のシナリオ通りに進んでいる。


そう思えばあの男のこともタイミングが良すぎた。アイツから逃げきれたのも、再会して改心した様を見せつけられたのも、私を信じ込ませるためのデモンストレーションだったのではないのか。行列に向かう時の小梢もいつもより強引だった。はじめからそうするつもりであのショッピングモールを選び、そして私が気づくように隣で寝ているフリをしていたのではないか。


何のために。親友だから引き入れたかったのか。分からない。分からないがただ一つ分かっていることがあった。私は小梢に憎しみの感情を抱いていた。小梢と美月を何とかしないと本当に世界は終わってしまう。


「小梢」


「な、何? 杏子ちゃん……」


今にも泣き出しそうな目で彼女は私を見上げる。許しを乞うような怯えた目だ。私は台車に一緒に寝かされていた鉄パイプを握ると、もう片方の手で小梢の服の襟元を掴んだ。そのまま無言で彼女を引きずるようにして歩き始める。


「きょ……杏子ちゃん……。ごめんなさい……私そんなつもりじゃ……」


「良いから歩いてよ」


「どこ行くの……?」


「知らない」


小梢はブルブルと震えながらも私に従って歩き始めた。父親には呼び止められたが、私は無視して海岸を離れ、防砂林を抜けて近くの山を目指す。歩いている間、小梢はしきりに謝罪の言葉を述べボロボロと大粒の涙を流したが、それはちっとも私の心に響かなかった。


空が茜色に染まる頃、私と小梢は誰もいない山中の神社へ到着した。私は小梢を引き倒し、倒れた彼女の髪を引っ掴んだ。


「痛い……! 痛いよ杏子ちゃん……!」


「痛いんだ。きっと小梢のせいで死んじゃった人もみんなそう思ってたと思うよ」


「ごめんなさい! ごめんなさい! 私こんなことになるなんて思ってなくて……!」


「返してよ、私のママ」


「杏子ちゃんのママ……? え、どうしたの……?」


「白々しい顔しなくていいから。美月に唆されて生贄になったんだってさ。それも小梢の書いたシナリオ?」


「あ…………」


小梢は口をパクパクと動かすが、具体的な言葉は出てこなかった。それが答えなのだろう。そっか、と私は短く呟いた後、渾身の力を込めて鉄パイプを小梢の頭部に振り下ろした。堅いものが砕ける感触がした。パイプが当たったところから赤い液体が吹き出る。


「あ……あぁっ……!! 痛いっ……!! やめて杏子ちゃんっ……!!」


「書いたんでしょ。小梢が」


「そうっ……! そうですぅ……書きました……」


「次から正直に答えてね」


直後、私は小梢の左足と脇腹にパイプを振り下ろした。男の時とは違い、細い小梢の足は一撃で変な方向に曲がってしまった。小梢が呻き声をあげるが、私はそれを無視する。


「小梢、ママを返して」


「ごめ……ごめんなさい……出来ない……私にそんな力……ない」


私は痛みに苦しむ小梢を足で転がし仰向けにさせる。そして無防備になった腹部に何回もパイプを振り下ろした。息をするのもやっとの状態にまで衰弱した小梢になおも私は話しかける。


「小梢に出来なくても美月には出来るでしょ。お願いしてよ」


「する……お願い……する…………から」


「じゃあすぐ戻ろっか。立って、早く」


私は小梢の顔の真ん前に鉄パイプをガンっと突き立てる。小梢は何とか立ち上がろうとするが、折れた足ではそれは叶わず、地べたで粗く息をあげることしかできなかった。見かねた私は折れていない方の足を掴み、彼女を引きずりながら下山した。ごめんなさい、痛い、やめて、お願い、杏子ちゃん、この五つの単語を壊れたラジオのように小梢は繰り返していたが、しばらくするとそれもなくなった。途中で公園で一休みする頃には完全に小梢は動かなくなっていた。死んだかどうか確かめるつもりはなかった。


来た道に小梢の血液を擦りつけながら、私は海岸まで戻ってきた。陽は落ち、代わりに群衆の持ってきたランタンが辺り一面に設置されていた。そして私が砂浜へ一歩踏み出した時、異変が起こった。


最初は群衆からの歓声だった。そして次に美月の声が聴こえる。


「高く空を見よ! 今こそ星辰正しき刻! 永劫の眠りを破り、今我らが主が帰還する!」


彼女が高く天に手を突きだすと、そこで何かがキラリと光った。そして次の瞬間凄まじい風が吹き荒れ、何もかもがその一点へと吸い込まれ始めた。それは物を吸い込む度に外縁を光らせ肥大化し、次第に黒い巨大な穴として現れた。まず美月の周囲の人間が吸い込まれていった。そして次には美月も吸い込まれた。私は小梢を放り出し、近くのガードレールにしがみついた。だがそれは一向に消える気配がなく、それどころか吸引力はどんどん増して行った。そしてついに地面が崩壊し、私はガードレールごとそれに吸い込まれて行った。


最後に見えたのは小梢の死体だった。一時の感情に任せて酷い事をしてしまったと、何もかもが手遅れの今後悔した。大粒の涙がこぼれた。だが私を許せる小梢はもうここにはおらず、頭上の自称神は何も救いを寄越さなかった。先に美月を始末していれば――いや小梢を信じていれば結末は違ったのかもしれない。私が懺悔の言葉を口にしようとした瞬間、私の身体はクシャクシャになって消えた。

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小説(R18-G)

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処方箋

知識とは毒である。知っているから生まれる疑惑、思い込みがある。
平穏な日常は隕石の到来によって終わりを迎えた。
普通の女子高生の水橋杏子と高砂小梢は最後の時を二人で迎えるために海へと向かう。


神話生物である"美月"によって「地球が滅びる」という情報がもたらされます。
それを真に受けた一部の人間が自棄を起こし、その様子を見て更に他の人間が自棄になる(荒れた街を見て本当に終末が来たと思い込む)ということが起こります。ただし主人公の水橋杏子と友人の高砂小梢はその過程を知らない、という設定です。
最終的に杏子は美月の計画を止めることに失敗し、神格が召喚されて世界崩壊エンドとなります。

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​利用規約

・シナリオの改変(可) シナリオではないですが、当作品を題材にして何か作成される場合で2022/11以前に公開する場合は作者までご連絡ください。
・動画、配信での利用(可)連絡不要です。
・営利目的の利用(可) 2022/11以前に公開する場合は作者までご連絡ください。
・クレジットの記載(要) JunoSospita
・その他注意事項(最後に出てくる神格はオリジナル神話生物のオーピス・チポータです。2022年秋のゲムマでこの神格にまつわる合同誌「グラ―キの黙示録14巻」を頒布予定です。特に気を付けてもらうことはありませんが、改変などの条件で期間が指定してあるのはそのためです。)

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​クレジット表記

作品名:連鎖崩壊のネクロ―シス
作者名:Juno Sospita
連絡先(Twitter)等:Twitter @JunoTRPG

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