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Poison berry

alea

​調合士:

Poison berry


クラスの女子の笑い声が遠ざかっていく。笑い声が聞こえなくなって、トイレの冷たい床から、ずぶ濡れになった自分の体を持ち上げようとしたとき、授業開始のチャイムが鳴った。それを聞きながら、次の授業は出られないなとぼんやり思った。よろよろと立ち上がってスカートを絞ると、なんだか汚い色をした水滴が落ちてきた。

私はいわゆるいじめられっ子というやつで、小学校のころから気の強い女の子にいじめられてきた。原因は自分でもなんとなくわかっている。しゃべるのが苦手なこととか、地味で可愛くないこととか、暗い性格とか、運動ができないこととか、表情が乏しいこととか、友達が一人もいないこととか、思い当たることを挙げればきりがないくらいだ。だから、いつしか自分がこんななのはどうしようもないことなのだとあきらめていた。

私はきっと、一生いじめられっ子で、一生友達なんかできなくて、一生恋なんかをすることもなく、一生一人ぼっちなんじゃないかとさえ思っていた。


あの子と、出会うまでは。


びしょびしょにされた制服をとりあえず絞ってみたけれど、そんなので制服が乾くわけもなく、体操服を取りに行こうにも今は授業中だ。さすがにこの格好で教室に入っていくような勇気はなかった。どうしようかと考えていると、廊下のほうから足音が聞こえてきた。先生だったら面倒だと思い、急いで個室に入ろうとしたとき、甘ったるい声が響く。

「何してんの?」

 その声に思わず動きを止め、声の主のほうを振り返る。そこに立っていたのは、肌は白く、髪の毛は少しウェーブがかった艶のある黒で、頬はほんのりとピンクに染まっている少女。華奢な体つきに細くて長い脚、そして顔はびっくりするくらい小さい。目は大きくてまつ毛は長く、まるで美しさの権化のような容姿をした学校の有名人が、潤いのある薄い唇の両端を少しだけ上げて、微笑んでいた。

 神代苺。彼女はこの学校の有名人だった。それはその突出した美しさのせいでもあったし、それ故に流れる虚実入り混じった様々な噂のせいでもあった。それは決していい噂とは言えないものばかりで、中学のころ大学生と付き合っていただとか、セフレがたくさんいるだとか、金さえ払えばヤらせてくれるだとか、教師と寝ているだとか、そんな下世話なものが多かった。いじめられっ子の私でさえ知っているような噂だ。この学校の人間は教師も含めてみんな知っていたし、近隣の他校の生徒の間でも有名な話になっているらしかった。そのせいで、教師生徒関係なく女からの評判は最悪で、はっきり言うと相当嫌われていた。けれど、男はそんな噂を聞いても彼女に惹かれるものが多かった。美しさは正義なのだ。それにそんな黒い噂が、さらに彼女の美しさを際立たせていたのも事実だった。

彼女と私は同じ学年で、クラスも同じだったけれど、悪い意味でとはいえ有名人と、毎日陰湿ないじめを受けているいじめられっ子の私の接点なんてあるわけが無い。強いて言うなれば、後ろにヤバい人たちが付いているという噂のために、本人に直接行かない女生徒たちの彼女に対する鬱憤が、たまに理不尽ないじめとなって私に被害をもたらすことくらいだった。それだって、彼女にとっては関係のない、知らないことだろうけれど。だから、彼女と話したのはこの時が初めてだった。

「ねぇ、聞いてる?」

甘ったるい声が、もう一度トイレに響く。私はそれに何でもないと答えてその場を立ち去ろうとした。制服も髪も濡らしてトイレにいるのになんでもないだなんておかしな話だけれど、だからと言って自分からいじめられていたなんて言うのもおかしいし、何よりどうしようもない事実だとしても、それを人にいうのはなんだか嫌だった。彼女は美しかったから余計に、これ以上みじめな気持ちになりたくないと思った。

保健室に行けば、タオルくらいは貸してくれるだろうか。あの気の弱い養護教諭は厄介事を嫌うから、濡れている理由について、私が適当な事を言っても、信じたような素振りを見せるだろう。そう思いながら、彼女の側を通り抜けようとした時、そっと腕をつかまれた。さっきまでずぶ濡れだった私よりも、冷たい手。驚いて振り返ると、私の手をつかんだ彼女は、それはそれはとても優しげな笑みを浮かべて、しゃべり出した。

「ねぇ、お友達にならない?」

やっぱり、甘ったるい、声。

私は一瞬何を言っているのかわからなくて、黙ってしまった。たぶん間抜けな顔をしていたに違いない。だって、おかしいだろう。この状況で、こんな姿の私に、お友達になりましょうだなんて。そうだ、おかしいのだ。それなのに、私はもっとおかしくなっていたようで、気づいたら私はその言葉に何故か、よろしくお願いしますなんて答えていた。すると彼女は嬉しそうに顔をほころばせ、

「うん、よろしくね?」

と、可愛らしく首をかしげながら言ったかと思うと、ずぶ濡れの私を構うことなく抱きしめた。微かに香る、甘い、甘い、イチゴの香り。

これが、私と苺ちゃんの出会いだった。


それから私は、苺ちゃんと行動を共にするようになった。休み時間、お昼休み、帰るときまで。苺ちゃんはことあるごとに私を誘い出し、二人で行動した。それからというもの、いままで私をいじめていたあのお金持ちの少女が、私に手を出してくる事はなくなった。やっぱり、苺ちゃんの噂のおかげかもしれない。その代わりに、クラスのおとなしい子達のグループが次の表的にされているようだった。けれど、私は少しだけ申し訳ないと思いつつも、仕方が無いことだと思った。学校とは、そういう場所だから。

「ね、次の授業さぼろっか?」

苺ちゃんにそう誘われると、私は何故か断ることが出来なくって、いつも授業をサボっては空き教室でダラダラした。苺ちゃんがサボる授業は、テストができていれば文句を言わない先生の授業らしい。そういえば、苺ちゃんはいつもテストの点数が良かったように思う。うちの学校はテスト結果の順位が上位だけ張り出されるような学校だけれど、そこにいつも名前が載っていると聞いたことがある。自分は絶対に載らないから、自分でその順位表を見たことはなかったけれど。だから、苺ちゃんはサボっても大丈夫な授業も、私はサボったら進学できないかもしれないなぁ。なんてぼんやり思っていた。その話を苺ちゃんに言えば、苺ちゃんはおかしそうに笑って私の手を握った。

「じゃあ、私が教えてあげるよ。」

 目を細めた彼女が私に向ける、暖かい視線の理由も、優しい言葉の理由も、私にはわからなくて、でもそれと同時に私は、苺ちゃんが提案してくれたことを断るような理由も持ち合わせていなかった。


 ある日の放課後のことだった。テスト前で部活動もなく、みんなが一斉に帰路に就くような放課後。苺ちゃんはいつものように私の席までやってくると、少し声を潜めて聞いてきた。

「今日暇?」

 私はこくりとうなずいた。もとより、私が暇じゃないことなんてほとんどない。苺ちゃん以外に一緒に過ごすような人もいないのだから。うなずいた私に、苺ちゃんは嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ、今日うちこない? 前に行ってた勉強、見てあげる。」

 手が触れる。相変わらず冷たい手。どうして、彼女の手はこんなにも冷たいのだろう。それよりも、彼女が自分を家に上げようとしていることに驚いた。思わずいいの? と問い返せば彼女はきょとんとした顔をした後に、納得したように笑った。

「いいにきまってるじゃん。友達でしょ?」

 友達。その言葉に、妙な感覚を覚えた。ともだち。トモダチ。言いなれないし聞きなれない言葉。思えば、はっきりと友達だと言ってくれる人なんて、苺ちゃんが初めてだった。苺ちゃんが、私の手を握る。手をつなぐなんて、高校生になってもすることなのだろうか? それもわからなかった。それでも、私とつないだ彼女の手が、少しずつ暖かくなるのが嬉しかったから、その手を拒んだりはしなかった。

「ここ。私の家。」

 そう言って案内されたのは、想像していた苺ちゃんの家とは全く違った。私は勝手に、苺ちゃんはきっと、とても綺麗でとても大きな家に住んでいると思ってた。一軒家でなくとも、綺麗で背の高いマンションの一室とかに住んでいるって。けれど、実際に紹介された苺ちゃんの家は私の家と変わらない、小さくて古い一軒家だった。

「意外だった?」

 私が呆けた顔して苺ちゃんの家を見上げているのに気付いたのか、苺ちゃんは困ったように笑った。

「こんな家に住んでると思わなかった?」

 その言葉に、慌てて首を振る。でも、たぶん苺ちゃんには私が考えていたことなんてお見通しだったのだろう。それがどうしようも無く恥ずかしくなって、思わずうつむいた。私が、他のみんなと同じように彼女のことを想像だけで決めつけていたとバレたことが、恥ずかしくて情けなかった。そんな気持ちさえ見透かしているのか、苺ちゃんはつないだ手にぎゅっと力を込めて、うつむく私の顔を笑いながら覗き込む。

「親近感わいたでしょう?」

 優しい笑顔。この笑顔を見れば、彼女の周りに渦巻くどんな黒い噂も、根も葉もない嘘だってみんなわかるだろうに。


 苺ちゃんの家の中は、綺麗とは言えないような部屋だった。玄関には安っぽい色のしたヒールの靴が乱雑に脱ぎ捨てられ、キッチンには洗い物がたまっている。机の上には郵便受けに入れられていたであろうチラシや請求書が雑にまとめられていて、居間のソファの上には、横を通るだけで香水の香りがするワンピースが脱ぎ捨てられていた。

 家に入った途端、苺ちゃんはいたずらっ子みたいな顔をして、唇に人差し指を当てる。

「おかあさん寝てると思うから、一階は静かにね。」

 そんな風に、くすぐったいようなひそひそ声で言うと、慣れたように音を立てないような歩き方をして階段のほうへ歩いていく。私もそのあとを静かに追う。階段の手前でふと部屋を見渡した時、奥に扉がもう一つあることに気付いた。あそこが、苺ちゃんのお母さんの部屋なのだろうか。そのまま階段を上がってすぐ、手前の部屋の扉を苺ちゃんが開ける。扉にはかわいらしいドアプレートが飾ってあったが、古いものなのか少し色あせていた。

「はい、私の部屋。」

 そういわれて通されたその部屋は、入った瞬間甘い苺の香りがした。苺ちゃんからいつもしてる香りだ。部屋の中は淡いピンクと白でまとめられていて、壁にはたくさんの写真が飾られていた。どれも母親らしき人と映っている写真ばかりだ。苺ちゃんの母親は、苺ちゃんをそのまま大人にしたような綺麗な人で、けれどどこか疲れているような、悲しげな眼をした人だった。

「はい。座って。あぁ、なんか飲み物とってくるね。」

 苺ちゃんはそういって、一度部屋を出ていく。私は、こんな風に友達の部屋に来るなんて経験初めてで、人の部屋というのはこんなにもどこか居心地の悪いものなのかと、変に感心してしまった。どこを見ていればいいかわからなくて、また壁に飾られた写真を眺めてみる。写真を見ていれば、この写真はたぶん全部苺ちゃんが中学生のころまでのものなのだろうということと、写真のどこにも彼女の父親が映っていないことが分かった。そういえば、玄関に男物の靴はなかった。苺ちゃんのお父さんは、いないのだろうか? そんなことをぼんやり考えながら、そういえば私たちは家族の話なんかしたことがなかったなと思い至る。視線をそのまま壁から窓際のテーブルへと移していけば、テーブルのわきに伏せられた写真立てを見つける。私は、そのままあまり何も考えずにその写真立てを手に取った。そこには小さな苺ちゃんと、スーツを着た中年の男性が映っていた。男性の目元は、どこか苺ちゃんに似ている。

「それ、お父さん。」

 いつの間にか帰ってきていた苺ちゃんに、背後からそう声をかけられて肩が跳ねる。苺ちゃんはさして気にした様子もなく、私の背後から白い腕を伸ばして、写真立てを手に取る。そうして、目を細めてその写真を眺めてから、また机の上に伏せてしまった。

「似てるでしょ?」

 彼女は笑う。私は、写真立てを勝手にみてしまった申し訳なさとか、どうしてお父さんの写真が伏せられているのかという疑問とか、そういうのでいっぱいになって黙って苺ちゃんを見つめるしかなかった。苺ちゃんはそんな私の視線からいろんなものを察したのか、そのままローテーブルの奥に座って自分が持ってきた麦茶を飲んで答える。

「お父さんね、むかーしに家出てっちゃったの。お母さんはそのことまだ許してなくてね。だから、写真もってるの知られたくないんだぁ。」

 何でもないことのように、苺ちゃんは笑う。苺ちゃんがそうやって笑うから、私も彼女の向かいに座って、彼女が持ってきてくれた麦茶を一口飲んだ。カラン、と氷の音がして冷たい麦茶がのどを通っていった。苺ちゃんが自分の家族の話をちゃんとしたのは、それが最初で最後だった。


 苺ちゃんと出会ってから季節が一つ巡った。桜はとうに散りきって、じめじめした梅雨がようやく終わるころ、今度は蒸し暑さと、うるさいほどの蝉の求愛行動が襲ってくる季節になっていた。

「暑いねぇ。」

 季節が巡っても、相変わらず苺ちゃんは私の隣にいてくれた。苺ちゃんは暑いなんて言いながら、半そでの上に薄手のカーディガンを羽織っている。脱いだらいいんじゃないかと思ったが、日焼けしたくないからかもしれない。この、立ち入り禁止だけれど鍵が壊れている屋上は、私たちの昼食スペースになっていた。涼しい風が吹く屋上の、貯水タンクの影に座る。コンクリートは日陰のおかげでひんやりと冷たい。私は母が作った普通のお弁当を広げる。苺ちゃんはいつも、コンビニで買ったパンの袋を開ける。そのまま、他愛もない話をしながら昼食を食べ終えれば、午後の始業のチャイムまで、ひんやりとしたコンクリートの上でくつろぐのがいつものことだった。周りからは蝉の鳴き声と、グラウンドで遊んでいる生徒の声が聞こえる。空には入道雲。夏の気配がもうすぐそこまで迫っていた。

隣で携帯を触っていた苺ちゃんが、ふいに胸ポケットからリップを取り出す。ピンク色の可愛らしい色をしたリップで、蓋を外した中身も淡いピンク色をしていた。苺ちゃんはそれを、自身の薄い唇に塗り始める。つややかになって行く唇を、私は黙って見つめていた。私の視線に気づいた苺ちゃんは、リップに蓋をしながら、私の方を見る。

「ん? 分けてあげよっか?」

苺ちゃんのその言葉の意味を理解するよりも先に、彼女の白い腕が私の頬まで伸びてくる。右手が私の左頬を包む。相変わらず彼女の手は冷たかった。けれど、この季節にその手はひんやりと気持ち良い。そのまま苺ちゃんは、惚けた顔をしている私に、自分の顔をちかづける。そうして、先程リップを塗ったばかりの唇を、私の唇に重ねた。香る、いちごの香り。唇にあたる柔らかな感覚。驚いていて固まってしまった私を他所に、唇を離した苺ちゃんは、私の頬に手を添えたまま、首を傾けて目を細める。

「ふふ、おすそ分け。」

その表情を見て、顔が熱くなるのを感じる。それと共に私の胸の内に沸き起こったのは歓喜だった。あぁ、あぁ、私には、苺ちゃんさえ居ればいい。それ以外は何も要らない。苺ちゃんの前では他のどんなものも価値などない。苺ちゃんさえ私の隣にいてくれれば、それだけでどんなことも出来ると思った。この時の私は、本気でこの子のためなら人も殺せると思っていた。本当に、そう思っていたんだ。


 ある日、苺ちゃんが学校を休んだ。私たちが仲良くなってから、苺ちゃんが学校を休むのは初めてだった。苺ちゃんがいない学校に、私の居場所はどこにもない。もうすっかりターゲットを変えていた、あのお金持ちの女がここぞとばかりに小さな嫌がらせをしてきたけれど、あの頃のように惨めな気持ちにはならなかった。私にとって一番大切なものが苺ちゃんだとわかってしまったから、他の誰に何をされたって興味などなかった。足を引っかけられて転んだとき、あぁごめんね。なんてわざとらしく嘲笑する彼女を見つめ返せば、彼女は居心地悪そうに視線をそらして去っていった。

 放課後、記憶を頼りに苺ちゃんの家に向かった。今日は朝から天気が悪くて、放課後の道は厚い雲のせいで薄暗い。雨の匂いが微かにした。苺ちゃんの家に着く。来てみたものの、来てよかったのだろうか? 玄関の前まで来てから、そんなことで迷ってしまって、玄関の周りを歩いていたら、頭上からはじけるような笑い声が響く。

「あはは、なにしてんの?」

 上を見れば、二階の窓から苺ちゃんが覗いている。私は、ここでうろうろしてるのが見られたのが恥ずかしくて、視線を下げてしまう。

「ちょっと待ってて。」

 頭上から声がして、そのまましばらく待っていたら、玄関のドアが開く。

「あがってく?」

 そういって笑う彼女の顔を見て、声が出なかった。彼女の美しい顔は、痛々しく真っ赤に腫れていた。まるで、だれかに殴られた時のように。

「あぁ、これ?」

 苺ちゃんは私の視線に気づいたのか、腫れている頬に手を当てる。手が白いから頬の赤が余計に目立っていた。苺ちゃんは微笑んだまま、何でもないことのように答える。

「んー機嫌悪くて。いつもは顔は打たないんだけどね。ほら、上がって。」

 そうして私を家に上げる。玄関には、この前のような靴は散らかっていなかった。どんどん進んでく苺ちゃんについていきながら、思わず階段の奥の扉に目線が送る。すると苺ちゃんはそんな私の視線にすぐに気づいて、振り返る。

「今日はいないよ。」

 その顔を見て、彼女の頬をこんな風に腫らしたのは、彼女の母親なのだと理解した。でも、なにも言わずに苺ちゃんの後をついていく。二度目の苺ちゃんの部屋は、やっぱり甘い苺の香りがした。机の上に伏せられていたあの写真立ては、無くなっていた。

 その後、私たちはなんにもなかったかのようにいつもと同じ話をして、いつもと同じように過ごした。苺ちゃんは腫れた頬についても、自身の母親についても、無くなった写真立てのことも何も話さなかったし、苺ちゃんが何も話さなかったから、私も何も聞かなかった。

「じゃあね。」

 玄関先で苺ちゃんが笑った。夏の夕方はまだ明るい。真っ赤な西日が、道路に長い影を落としている。私は、思わず苺ちゃんを抱きしめた。初めて会った時と同じ、甘い苺の香りがした。

「どうしたの?」

 甘ったるい、優しい声。その声にこたえるように、抱きしめる腕に力を込めた。何でもできるよ。そういった。声は思ったより掠れていた。苺ちゃんは私の言葉にこたえるように、私の体を抱きしめ返す。

「それでも、大事なんだぁ。」

 子供みたいな声だった。そのまま抱きしめあって、しばらくしたら苺ちゃんの体が離れていく。遠ざかる、苺の香り。

「また明日。」

 苺ちゃんは目を細めて手を振った。私もそれに振り返して、帰路についた。次の日、苺ちゃんはいつも通りに登校した。頬の腫れはすっかり引いて、美しい顔で笑っていた。



 その日は、明日から夏休みだということもあってか、通学路の学生たちはみんな浮ついていた。そんな通学路で、苺ちゃんは後ろから私に声をかけながら、いつものように私の手に自分の手を絡ませた。相変わらず、ひんやりと冷たい手をしていた。

「おはよ。」

 隣から私の顔を覗き込むようにそう笑った彼女は、どこかうれしそうに見えて、何かあったのか聞けば、子供のように目を細めた。

「嬉しいことがあったの。」

 それ以上細かいことは話さなかったし、話す気はないんだと思ったから、私はただ一言よかったねと答えた。苺ちゃんが私の言葉に、余計にうれしそうに頬を綻ばせるものだから、なんだか私もうれしくなって口角が上がるのを感じた。

 そのまま二人手をつないだまま教室に向かう。扉を開けて中に入った瞬間、違和感に気が付く。廊下まで騒がしく聞こえていたクラスの喧騒が、私たちが入った瞬間に止んだのだ。周りを見渡せば、クラスメイトはみな私たちのほうを向いていたかと思うと、すぐにわざとらしく目をそらして、それぞれがひそひそと話を始める。何があったのかと考えていると、黒板が目に入った。そこには数枚の写真と共に、「援交女」と大きな文字で書かれていた。隣で、苺ちゃんが呟いた。

「あーあ。」

 目を細めて、笑っているように見えたけど、先ほどまでの嬉しそうな顔とは全く違う笑顔だった。私は、すぐに黒板に向かって、力任せに書かれた文字を消した後、写真も回収しようと手を伸ばす。そこに映っていたのは、背広を着た中年の男性と腕を組んで歩いている苺ちゃんの後姿だった。私は夢中になって、破るような勢いで貼られている写真を外していくうちに、気づいた。この写真に写っている男性は、苺ちゃんのお父さんだ。前に見た写真より少しやつれているけれど、間違いなく、これは苺ちゃんのお父さんだ。それに気づいた瞬間、思わずクラス中にむかってそのことを叫びそうになった。実際私は、気づいた瞬間黒板に背を向けて、息を吸い込んだ。けれど、そんな私の手に、いつも間にかとなりに来ていた苺ちゃんの冷たい手が触れる。

「言わないで。」

 小さな、声。その声に振り返れば、苺ちゃんは私の手の中にある二人の写真を見つめていた。その眼はどこか寂しそうで、私は何も言えなかった。


 そのあと、授業開始のチャイムが鳴って数分後に先生が来て、苺ちゃんだけを呼び出すと自習だと言い残して去っていった。ぴしゃりと先生が扉を閉めたのと同時に、クラス中がにぎやかになる。やっぱ噂って本当だったんだ。じゃあほかの噂も。でもやってると思った。そんな声に、バカみたいな噂で彼女を汚すな! と叫び散らしたい衝動を必死にこらえてただじっと机を見つめていた。言わないで、といった彼女の言葉を何度も何度も頭の中で反芻しながら。そんな私の耳に、女子の高い声が響く。まさか偶然とれた写真でこんなことになるなんて、ざまあみろよ。その声に勢いよく顔を上げた。その声の主は、私のことをずっといじめてた金持ちの女だった。彼女はそのあとも不快な高い声で言葉を続ける。前から気に入らなかった。ちょっとかわいいからって調子に乗って。自分は私より上だって思ってるあの笑顔とか。いい気味だ。このまま退学になればいいのに。どんどん、その女以外の声が遠のいていく。こんな女の見当はずれな嫉妬のせいで、苺ちゃんが迷惑をこうむったのか? そう思ったら、頭の中が真っ白になって、胸の内にどうしようもない真っ黒などろどろとした何かが、湧き上がってくるのを感じた。自分がいじめられてた時だって、こんな気持ちになったことはなかった。遅れて理解する。これは殺意だ。私は、あの女を殺したいほど憎んでる。

 気づいてからは早かった。私は席を立ち、教室の後ろに飾られている花瓶を手に取った。一番右の後ろの席に座るその女のもとに近づいて、花瓶を振り上げた。花瓶の中の水がバシャバシャと音を立ててこぼれて制服を濡らし、床には花が散らばった。ガシャン、と花瓶が割れる音がして、クラスの喧騒が止まる。花瓶は女の机の上で粉々になっていて、女は椅子ごと倒れてわなわなと震えている。あぁ、はずした。そう思ったのと、女が叫ぶのは同時だった。女の叫び声と共に、クラスの喧騒も戻ってくる。なんで急に、頭おかしい、こわい、離れろ、私は悪くない! そんな声をどこか遠くに聞きながら、割れた花瓶をさらに振り上げたところで、ガラガラと教室の扉が開く音がする。そこに立っていたのは苺ちゃんだった。教室中の時が止まる。苺ちゃんはクラスで起こっている出来事なんて気に留めず、教室の中を歩いていく。その姿はどこまでも美しくて、この世界において異質だった。苺ちゃんはそのまま自分の机から鞄を取って教室を出ていく。私はそれを目で追いながら、苺ちゃんが教室を出ていった数秒後に我に返り、持っていた花瓶を投げ捨てて、苺ちゃんを追いかけた。背後からまた悲鳴や怒号が聞こえたけど、苺ちゃん以外のことは全部無視した。


 苺ちゃんを追いかけて、昇降口に向かう。もう靴も履き替えて、昇降口から出ようとしている苺ちゃんを、必死に呼び止めた。静かな廊下に私の声が響く。人生でこんなに大声を出したのは初めてだった。

 苺ちゃんは振り返る。やっぱり、いつもと同じ、何でもなかったみたいな顔をして笑っていた。それを見て、私はやっと気が付く。そういえば、苺ちゃんが笑っていなかったことなんてあっただろうか? 苺ちゃんはいつも目を細めて口角を上げて、笑顔に見える表情をしていた。いつもいつもいつも。私は苺ちゃんの怒った顔も、悲しい顔も、泣いているところも見たことがなかった。苺ちゃんはいつも、どんなことがあっても、何でもないことのように笑っていたのだ。あぁ、なんで今更、気づいたのだろう? もっと早く気づいていたら。気づいていたら? 気づいたところで私に何かできただろう? わからない。でも、今気づいてももう遅いことだけは確かだった。だって、確かな予感があるのだ。これが、苺ちゃんと会って話せる、最後になるって。

「あはは、また濡れてる。」

 そういわれて思わず自分の制服を見た。さっきの花瓶の水のせいで、濡れていた。また。あぁそうだ。初めて会った時も、私はびしょ濡れだったな。

「ありがとう。怒ってくれて。」

 優しい声。ありがとうと言いたいのは私のほうだった。でも、今口を開いたら、もう何年も流し方を忘れていた涙が溢れそうで、私はどうにか黙って苺ちゃんを見つめることしかできなかった。

「ねぇ、忘れないでいてくれる? 今のたぶん一番きれいな私を。ずっと覚えていてくれる?」

 私を見つめる苺ちゃんのまっすぐな瞳。私はそれをまっすぐ見つめ返して、そうして何度も首を縦に振った。言われなくたって、忘れられるはずがなかった。苺ちゃんは、私のすべての初めてで、これからの人生に苺ちゃん以上の何かと出会うなんてこと、きっと私にはありえないから。

「はは、変な顔。でも、ありがとう。」

 苺ちゃんはそういって、やっぱり最後まで笑って、私に背を向けた。苺ちゃんの背中が遠ざかっていく。小さくなっていく。これが最後だ。きっともう苺ちゃんには会えない。苺ちゃん。苺ちゃん。私の初めて。私の唯一。私の、神様。

「苺ちゃん! 私、わたし、あなたのことを愛してる! 何より、愛してるっ……」

 必死に叫んだ私の言葉に、苺ちゃんは一瞬だけ振り向いた。夏の日差しが邪魔して、その表情は見えなかった。私は、苺ちゃんの姿が見えなくなるまで、いや、見えなくなっても、そこに立ち尽くしているしかなかった。


 これが、私の人生で初めてで、唯一で、一番の、恋の話です。

 今思えば、苺ちゃんはあの学校という狭い世界の中で、毒のような存在だったのだろうと思うのです。美しい容姿や、様々な噂が飛び交う素性、どんな風に言われても微笑むだけのその態度。全てが甘美で蠱惑的。それゆえみんなは彼女に惹かれたし、彼女を恐れたのです。あの狭い世界の中で、彼女は劇薬と言って差支えのない存在でした。そして、私もまた彼女のそんな毒に侵されていた人間の一人だったのです。あぁ、一体あの中の何人が、本当の彼女のことを知っていたというのでしょうか? きっと誰も知らなかったのだと思います。それはもちろん、私自身も。

 

けれど私は、私が見ていた彼女は、甘美で蠱惑的な、恐ろしく美しい女などではなく、家族を愛する、友達想いの、ただの普通の女の子だったのだと、今になって思うのです。

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小説(百合)

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処方箋

「私はきっと、一生いじめられっ子で、一生友達なんかできなくて、一生恋なんかをすることもなく、一生一人ぼっちなんじゃないかとさえ思っていた。……あの子と、出会うまでは。」
地味ないじめられっ子「私」と、美しくてミステリアスなクラスメイト「苺ちゃん」との、半年にも満たない出会いから別れまでの日々を描いた小説。ジャンル:百合。

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作品名:Poison berry
作者名:alea
連絡先(Twitter)等:@7alea8

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